曹洞宗嶺松山高建寺について

嶺松山高建寺は福井県永平寺、横浜市総持寺を両本山とする曹洞宗寺院です。

<高建寺の開創とご開山>

1427年(応永三十四年)、傑堂能勝禅師(けつどうのうしょうぜんじ)によって開創されました。本寺は新潟県村上市耕雲寺。

能勝禅師は、かの建武の中興の知将、楠木正成の四男正儀(まさのり)の嫡男で正能(まさよし)である。
 史書によれば、祖父の遺志をついで、南朝再興をはかり、勅命によって足利勢と戦い、敵の流れ矢を受け膝頭を負傷、再び武将たり得ず25歳にして感悟するところ有り出家。
その後、福井県龍沢寺(りゅうたくじ)、梅山聞本禅師(ばいざんもんぽんぜんじ)を師として随身修行する事多年、やがて応永元年、越後村上に至り耕雲寺を開創された。以後穏坐30年、門弟の育成と衆生教化に努められ、耕雲寺は、遠く関東、東北、北信越に直末(じつまつ)寺80ヶ寺孫末(まごまつ)寺367ヶ寺を数えるにいたった。
禅師は1427年(応永三十四年)八月七日、病を得て入寂された。世寿七十三歳。

「洞上方系大鑑」によれば「嶺松山(れいしょうざん)高建寺は傑堂能勝禅師を開山とし越後村上耕雲寺末にして直末寺中第四座に列す。」とある。

<山門(江戸時代、安永年間)>

二王門とも言う。寺院の守護神である二王像が安置されてある。左が口を開けている密迹(みっしゃく)金剛(阿形像)、右が口を閉じている那羅延(ならえん)金剛(吽形像)。総丈一丈三尺(4m)。二王像は安永年間(1772~1781)、京都から海路西目浜(現由利本荘市)に到着、荷馬車で当寺まで運ばれたという。
他に、左側に閻魔王、十王、右側に如意輪観音、妙見菩薩、三宝荒神がまつられている。特に二王尊は、息災、厄除け等、霊験あらたかにして、参拝者が後を絶たない。現山門は昭和三十四年に改修。

                    江戸時代安永年間作
           阿形像(あんぎょうぞう)            吽形像(うんぎょうぞう)

<開基 大井五郎満安公>

 

      満安公の舞姿の自画像
(郷土資料館蔵)

 南北朝動乱期を経て、応仁元年(1467年)信州大井庄(佐久市)から大井義久公が矢島に土着した。(由利十二頭記)祖は、信濃守(しなのかみ)小笠原氏。
 
戦国末期の天正年間に入り、その後裔四代目、五郎満安(みつやす)公は、仁賀保氏を旗頭とする由利連合諸党と幾多の激戦に及び、天正十九年(1591年)、最上義光の招きに応じ山形城往来の節、その留守の館を襲われ、ついに西馬音内(にしもない)、小野寺城にのがれ、やむなく自害した。
 時に文禄二年十二月二十八日(1593年)ここに矢島大井一族は滅び、公は豪勇無双の雄将として、また、歌や舞を愛した風雅の武人として後世に語りつがれた。(由利十二頭記、永慶軍記等)

  


満安公愛用の茶釜



満安公愛用の飯器

 
伽藍の変遷>

草創期(応永年間末)は現鳥海町伏見、次に矢島町根城、次いで現龍源寺境内のち坂之下(大井満安代)に移る。たまたま寛永十六年(1639年)、白髭大洪水のため、伽藍流失、現在処に至る。
現在の伽藍は、本堂棟札(むなふだ)によれば元禄七年(1694年)の建立。明治初期までは、鐘楼堂向かいの畑地(現在は車庫)に僧堂(坐禅堂)があった。
また、山門の両側には十王堂、観音堂があったが、これらも破損等で維持容易ならず、解体して仏像だけは山門内に安置されている。


<十六羅漢尊者(江戸時代 安永年間)>

羅漢を阿羅漢ともいう。梵語アラハトの音訳。
修行者が到達する最高の地位にして、迷いと煩悩の賊を滅し、無量の功徳を具え、他の供養にあずかる資格のある聖者を羅漢という。古来、十六羅漢、五百羅漢等の尊称で親しまれている。
禅宗では、仏法護持の尊者として、山門の楼上にまつる習わしがある。当寺尊像は、万民の福寿康寧、災厄消除のため、当寺十二世養禅和尚の発願により、安永九年(1780年)入仏開眼供養が行われた。昭和三十四年の山門改修までは、山門楼上にまつられていたが、現在では本堂内陣両側にまつられている。


   
   

<臥龍の松>
当寺庭園の松。誰がつけることもなく臥龍松(がりゅうまつ)、あるいは鳳姿松(ほうしまつ)という。龍が横たわっているようでもあり、鳳が翼をひろげたようでもある。
この種の松、当寺の他に、山形県鼠ヶ関と福島県にあり、東北の三名松と謳われ、しばしば遠く詩人墨客の杖を引いた。樹齢推定、約四百年以上。昭和五十年、矢島町天然記念物に指定。



開山堂と臥龍の松



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